2023年4月23日──国際的な「DNAの日(4月25日)」に最も近い日曜日ということで、この日程が選ばれた。2023年は2003年になされたヒトゲノム解読の完了宣言からちょうど20年。その節目の年のDNAの日に近い休日に「ゲノムとわたし、あなたとゲノム」と題したイベントが開かれた。会場である東京大学 本郷キャンパスの福武ホールに集まった参加者は43人。オンラインでは116人が参加した。
この日の演目は以下の目次のように盛りだくさん。進行役である東京大学医科学研究所教授の武藤香織さんの開会の挨拶のあと、さっそく2時間15分のシンポジウムが始まった。
目次
- みんなで考えるのが大事
- ギャップを埋める
- “中の人”が語るヒトゲノム計画
- ヒトゲノム計画がもたらしたもの
- 見えないDNAを市民参加実験で見える化
- 実践者ならではの気づき
- ゲノム診療で何ができる?
- 医療で遺伝情報はどう使われる?
- 「みんな」の参加が必要
- どんな課題があるのか──ディスカッションパート
みんなで考えるのが大事
最初の話題提供者である東京医科歯科大学生命倫理研究センター教授の吉田雅幸さんは「『DNAの日』に考えたいこと」と題した話の冒頭で、DNAの日は「DNAについてみんなで考える日」だと紹介した。「みんなで、というところが大事なのです。みんなで考える」と強調する吉田さんはこのイベントの主催者である日本医療研究開発機構(AMED)事業「ゲノム医療・研究への患者・市民参画(PPI)推進およびリテラシー向上のための基盤整備プロジェクト」の研究グループのリーダーだ。
吉田さんは「みんなで考える」の具体例のひとつとして、医療や医学研究への患者や市民の参画を呼びかける。これは試料や臨床情報の提供といったことだけではなく、研究の計画を立てるときから、参画してもらうことだ※。こうすることで、研究者・医療者は患者・市民の期待や不安をより深く知ることができるし、市民たちの側も研究者が何を目指してどういう思いで研究に取り組んでいるのかを知ることができる。ともに研究を進めていれば、その成果が社会に還元されるときも、患者・市民にとってより使いやすいものになっているだろう。
ギャップを埋める
吉田さんは研究者と患者・市民のギャップを埋めたいという。昨今よく聞かれる「ゲノム情報の利活用」とは、医療者・研究者にとっては「患者一人ひとりに合わせた個別化医療」、あるいはそれを実現・推進するための研究のことだ。個別化医療とは、たとえば、がん治療であればその人の生まれついての体質(抗がん剤などの体内での分解のされやすさなど)や、その人のがん細胞にある変異に合わせた治療方法を選ぶ医療のことだ。その患者さん個人にとって効果のより高い、副作用のより少ない治療法が選べるわけだ。地道な研究が必要となるが、将来的には治療や診断だけでなく、予防にも使えるようになるだろう。一方、市民の側には、ゲノム編集といった最先端技術を使って、外見や才能などを親の好みに合わせた「デザイナーベビー」を作ろうとしていると考える人もいる。患者や市民が参画して、みんなが研究にかかわるようになれば、こうしたギャップも解消できるだろう。
※「参画」は「参加」よりもさらに深くかかわることを指している。AMEDのPPIガイドブックによれば、参加は「患者・市民が研究計画の『研究参加者』となること」であるのに対し、参画は「患者・市民が研究者とパートナーシップを結びながら、研究の計画、デザイン、管理、評価、結果の普及に関わること」としている。
“中の人”が語るヒトゲノム計画
次は東京大学名誉教授の榊佳之さんと、聞き手としての東北大学教授・長神風二さんによる「ヒトゲノム解析の歴史〜レジェント研究者からのメッセージ」。榊さんは「ヒトゲノム計画」を日本で主導した“レジェンド研究者”だ。1990年に始まり、2003年に完了宣言がなされた国際プロジェクトのヒトゲノム計画は、生命科学系のマイルストーン事業であり、今の生命科学を支える基盤となる知見をもたらした。
ヒトゲノム計画を当事者として経験した榊さんのお話はまさに圧巻だった。タイトルは「ヒトゲノムの扉を開いた『サムライ』たちとゲノム時代の大展開」。DNA二重らせん構造の発見に始まる70年にわたる歴史を、日本人を含めた多くの研究者が登場する群像劇のような物語として語ってくれた。
榊さんのお話に登場した最初の日本人研究者は和田昭允博士。DNAの塩基配列を決定する最初の技術である1977年のサンガー法の開発からわずか4年後に、和田博士は自動化を提唱する。当初はむしろ手作業の方が速いくらいだったが、そうした理由で和田博士の論文を出版に値しないとした論文査読者を和田博士は厳しく批判したという(和田博士は、維新三傑の一人・木戸孝允の孫。昭和の生まれだが“明治の気骨のある人”と榊さんは評する)。1980年代には米国のダルベッコ博士らがヒトゲノム計画を提唱。莫大な研究費と時間、人手がかかるこの計画にはどの国でも賛否の声があったそうだ。
榊さんはヒトゲノムの解読が可能になったのは3つの要素があったからという。1つは和田博士らが進めた解読の自動化の技術とその大規模化。そして、国際協力。最後は学際的な協力で、とくに情報科学との連携が大きかったという。
国際協力として榊さんが「これがあったからヒトゲノム計画は成功した」と力を込めて語ったのは、英国のサルストン博士が呼びかけた1996年のバミューダ会議で採択された「バミューダ原則」だ。ここでは「ヒトゲノムは人類共有の財産」と明確に謳い、「データは24時間以内に無償で公開する」と決めた。
この翌年の1998年に日立製作所とApplied Biosystems社が高速の自動DNA配列読み取り装置(DNAシーケンサー)を製品化する。日立の神原秀記博士が開発したキャピラリーDNA法を応用したもので、既存技術の10倍の速さで読むことが可能になった。そして、皮肉なことにこの装置を300台も購入し、圧倒的なスピードで国際ヒトゲノム計画チームを追い越しにかかったのが、ベンダー博士の率いるCelera社だ。結局、当時のクリントン米大統領の仲介で両チームは握手をすることになったが、榊さんの言葉の端々から当時の複雑な思いを伺うことができた。
ヒトゲノム計画がもたらしたもの
ヒトゲノム計画は生命科学の共通基盤をもたらしたと榊さんはいう。ヒトゲノム解読の完了(2003年4月)とともに生命科学は新しい時代に入ったのだ。榊さんは限られた時間のなかで、その後の20年のめざましい進展も紹介してくれた。
ヒトゲノム計画は1人分の全ゲノムを解読するのに13年をかけたが、DNAの配列を読むスピードは格段にあがり、今や数日で可能だ。コストも劇的に下がった。個人が自分のゲノムを読むことも十分に現実的になっている。こうして大量の個人のデータを解析できるようになったおかげで遺伝性疾患といったまれな病気だけでなく、たくさんの遺伝子が少しずつかかわる生活習慣病やがんといったよくある病気へのリスクを見積もることも可能になってきている。
さらには、腸内にいる細菌集団のDNAを読むことで、病気と腸内細菌とのかかわりがわかるといった新しい学問分野も登場してきた。ヒトゲノム計画にも参加した服部正平博士はこの分野の先駆者の一人だ。さらに遺伝子のオン・オフを調節するエピゲノムも今の注目分野だという。
最後の話題はゲノム編集だ。ゲノムを解読する時代から今や改変する時代になろうとしている。筋肉量の多い家畜や養殖魚、有用成分を豊富に含む野菜など、すでに食の分野では実用化され始めている。この技術を医療ではどう使うか?これが榊さんの講演を締めくくる問いだった。