天野さんが患者の立場からPPIに関わった人であるならば、長神さんは研究者の側から市民に向き合った人だ。長神さんが科学コミュニケーションの実践者としてのキャリアを日本科学未来館で始めた時期は「欠如モデル」と呼ばれる手法が批判され、市民の声を聞く双方向性の科学コミュニケーションへと変わってきた時代だ。欠如モデルとは「知識の欠如している市民に正しい知識を注ぎ込めば、科学への忌避は回避できる」というもの。科学コミュニケーションの先進国とされる英国でBSE騒動などで欠如モデルは機能しないことが明白になった。
長神さんは東北メディカル・メガバンク計画(ToMMo)の設立準備の段階から今も広報や倫理、企画などの担当者としてかかわり続けている。2013年5月に本格スタートしたToMMoは、宮城・岩手の一般住民15万人に協力してもらい、三世代コホート・地域住民コホートを構築し、その成果としてバイオバンクを構築しようというもの。地域住民の協力は不可欠だ。長神さんらToMMoのメンバーは本格スタートの前である2012年から市民との対話を行ってきた。講演では震災の影響が生々しく残る現地で、市民とどうコミュニケーションをとって来たかを具体的に紹介した。
シチズンの代表・首長からの要望
「研究への患者・市民参画(PPI)」の市民は英語ではパブリックだが、日本人が市民と聞くとシチズンを思い浮かべるだろう。長神さんらToMMoのメンバーは計画がスタートする前に、両方の市民の代表者と、参画を呼びかける対話を始めた。シチズンの代表者は首長だ。まずは宮城県知事。その後、県内の全35市町村の保健福祉セクションを行脚することに。保健福祉セクションが実務の協力担当になるからと、市町村の首長はすぐには会ってもらえないという理由から。そして全35の首長と面会にこぎつけ、その後も新規就任などがある度に訪問を続け、今も県内行脚は続いていて3周目。首長に会うことができ、握手の写真を撮影したら、その写真を市報などに載せてもらうようにお願いした。
この段階で、長神さんらToMMoはシチズンの代表者である首長からの要望として「医療人材の不足への対応」「住民への説明機会」などの声を聞く。また何度となく聞いたのは「(調査疲れをもたらした)ほかと違ってあんた方は(仙台から)逃げないからな」という言葉だったという。震災後、被災地の協力のもとでさまざまな“調査”が行われたが「一方的に情報を得るだけで、その後は結果の共有さえなかった」というような例がいくつもあったという。PPIの理念とは真逆の“搾取”を被災地の人たちは経験させられていたことになる。ToMMoはそうではないと知ってもらうプロセスは不可欠だっただろう。
パブリックの声を聞く
もうひとつの“市民”であるパブリックに対しては、地域の健康診断の会場でコホート調査に対する態度調査をした。複数の場所で行っているが、津波で甚大な被害を受けた沿岸の山元町では約300人に畳に座ってもらいながら調査をした。また、妊婦に対しては約1時間のヒアリングを30人に対して行い、インフォームドコンセントの書き方などについての意見ももらった。ToMMoは東北大学が実施主体となる計画ではあるが市民が“本音”を言いやすいよう、妊婦からのヒアリングには東北大以外の人があたった。仮設住宅の茶話会に参加して住民の要望を聞いたり、東北大の医師が3人1チーム4か月交代で被災地の医療機関の常勤ポストを担う制度を発足させて、その診療経験から被災地の医療ニーズをくみ上げるようにした。
印象的だったのは長神さんが実際に何度も聞いたという地元住民の声。ToMMoに参加しても本人が医療の形で恩恵を受けることはあまり期待できない。そのことを理解した上で「でも、子どもや孫の役に立つならば」「震災で世界中の支援を受けた。世界に役立てるのならば」と答えた人は多かった。長神さんは「日本では寄付やボランティアの精神が根付いていないと言われることがあるが、こういう人も10人、20人単位で実際にお会いしている」と話す。
始まったあとも対話は続く
ToMMoが本格的にスタートした後は、自治体や議会、教育関係者などを対象にした協議会、参加者や住民を対象にした説明会、見学会などを開いたり、地域の健康関係のイベントにブース出展をして、一般市民と対話する機会を作っている。さらには365日24時間対応の電話の窓口を設置し、住民はいつでも質問したり、意見を伝えたりすることができるようにしたという。とくにToMMoそのものに対する意見はメンバー全員で共有している。
当初は「被災者という弱い立場の人を利用しているだけではないか」という声もあり、県議会でもたびたび質問されたので、それに対する回答書を作ったり、市町村の議員が集まる協議会では直接、説明したりした。意見の異なる市民グループとは繰り返し意見交換を行い、5年を経てシンポジウムを共催する関係になったという。
成果とその普及のPPI
ToMMoでは希望する参加者に遺伝情報の回付をして、結果の共有をしている。一方で、社会に対しては研究成果を出してそれを普及させることも求められている。普及に関して、患者に参画してもらった一例も紹介された。研究の成果は、1歳のときにテレビやタブレットの画面を見ていた時間が長いグループは2歳・3歳で発達の遅れが見られた割合が高いというもの。米国の学術誌に発表されるやいなや、米国の複数のテレビが大きく取り上げた。これで長神さんは逆に慎重になり、日本語のプレスリリースを出す前に発達障害の当事者ご家族4人に個別にオンライン会議で意見を求めた。そして、全員から「1歳のときの画面を見る時間が長いことが発達に影響をもたらす(因果関係がある)のではなく、のちに発達の遅れとして現れるものが1歳の時には画面を見る時間の長さとして現れているのだろう」というコメントをもらったそうだ。日本語のリリースはこれを加味したものになっている。
課題は残る──多様性の確保
ToMMoでは調査参加者を(新生児や小児を除いて)「自力で調査に対応できる人」としている。このため視覚障害や聴覚障害などの方々は参加しにくい状態になっている。「これでよいのか」というのが長神さんらの悩みだという。弱視の方に向けて黒地に大きな白文字のパンフレットを作り、「グッドデザイン賞をいただいたりしましたが、これで十分なのか、まだできることがないか」など考え続け、聴覚障害者で強度の弱視でもある女性にスタッフになってもらい、学びながら試行錯誤を続けることにしたという。たとえば手話では遺伝子もDNAもゲノムも同じと知り、長神さんは「どうやって説明していけば良いのか。時間が掛かっても良いから考えていきたい」と述べた。